飛騨の細道175-「神が微笑まれる場所」その1


■神が微笑まれる場所

ある名ガイドは、乗鞍岳の五ノ池を言葉で言い尽くせず、
「まるで天国」と一言で称したというが、
乗鞍岳の峰、剣ヶ峰(3,026m)から南側へと大きく広がる裾野に、
天国のような湿原帯がある。

千町ヶ原(2,357m)と呼ばれるその場所は、
乗鞍側から奥千町、中千町、千町ヶ原と、標高差がちがう湿原地で、
一説には民話に出てくる巨人の
”べいたらぼっち”がホップ・ステップ・ジャンプと、
とびはねた足跡だとも言われているが、
あながち嘘ではないような気にさせる、平らな湿原地の登場である。

三つの中ではジャンプの千町ヶ原(高山側)の湿原が一番大きく、
地下水が滲み出てきて、池塘(ちとう)という不思議な池を作っている。
水面に映るコバイケイソウとわたすげがゆるやかに揺れる水面に、
腕を入れる。水深はおよそ15cmほど。

水底は泥炭土で、腕はさらに15cmほど沈み、
透明の水が一瞬にして褐色に変わる。
見れば見るほど不思議な光景で、
いたるところが水を吸ったスポンジのようなのだ。

今年は5年周期で咲くといわれるコバイケイソウの当たり年。
三つの湿原はいたるところが、
オフホワイトの色で埋め尽くされていて、
天国とはまさにこいうところと合点がいき、思わずうれしくなる。

帰るまでの3時間、聞こえてくるのはコメツガを揺るがす風の音だけ。
足元には可憐で小さな花の命が震えるように揺れている。
“この光景はまさに今日という日だけのものですから、
しっかりと焼き付けてください”

ガイドが言う今日という命が息づいている風景。
ここは神が微笑まれる場所である。


写真/木道のまわりに点在する池塘