飛騨の細道 103-「飛騨の妙好人」


■飛騨の妙好人

支流を分け入った山里に、
下界と切り離されたような一つの長閑な村がある。
そこには自然と抱き合う、優しく小さな鐘楼とお堂があり、
心を潤すような愛らしさが、
すべての物の上に一面に漂っている。

それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ、
平凡に過ぎる光景ではあるが、
しかしわたしたちの心が和らぎと休息を求めている時には、
秘めやかな魅力をもって
心の底にあるものを動かすのである。

草深い飛騨の田舎には篤信な人たちがいて、
家々の仏壇は眼の覚めるほど立派である。
たとえ、家が古くても仏壇には財を傾ける。
この仏壇こそは家の中心である。
いや、生活の中心がそこにあるといってもよい。

まばゆいばかりの金色で塗られ、
綾なす彫りや、輝く扉や、光る輪燈や五具足や、
よろずのものが揃い、もとより中央に高く弥陀如来がその慈眼を注ぐ。

だからいざというときには村々の人たちは、
その寺を守るために国税を凌ぐほどの負担であろうが、
悦ばしい務めとして進んで喜捨する。

といってかれらがけっして金持ちなのではない。
なかには随分と貧しい人もいるのだが、
その純なる心の深さが、
飛騨そのものなのである。