飛騨の細道 50-「わかげのいたりという旅」


■わかげのいたりという旅。

“わかげのいたり”という言葉がある。
血気盛んな若者が無茶をしでかすことをいうが、
だれしも若い頃、ひとつやふたつの無茶ぐらいはしたのではないか。

中学生の頃、友人とつれだってサイクリングに出かけたことがある。
家族には近場のキャンプ場で泊ると嘘をついたが、
実際は北陸の海まで100キロ近くを走り、海岸で野宿する計画だった。

急峻な飛騨の峠をいくつか越えると自転車は富山県に入った。
今までと打ってかわって道は下りはじめ、やがて平坦の道が続いた。
時計が午後2時を回るころ、
小さな神社に立ち寄り長めの休憩をとったのだが、
これが大きな誤算だった。

休憩を終えた私たちはその後、海にむかって走り続けたが、
夕食を調達するためにスーパーに寄った。
ポケットに手を入れるとあるべき財布がない。
会計係りだった私は二人分の路銀を失ってしまったのだ。

帰るべきか、行くべきか。
結論が出るのは早かった。
二人は来た道を戻り、重苦しい足取りでペダルを踏んだ。

行きに休憩した神社が再び視野に入ったとき、
とっさに私は神様に祈った。
空腹を我慢し、真夜中に峠をいくつも越えるような
元気が二人にはなく、誰かにすがりつきたい気持ちだったのだ。
ふたりは神様に導かれるように境内に入った。

数時間前に座っていたブランコをなにげなく見た。
地面に何かが落ちていた。
近寄ってみるとそれはまぎれもなくじぶんの財布だった。
小さな神社だったのが幸いしたのか、中身もそのままだった。

挫折感は一瞬にして喜びに変わり、
数千円の路銀は何十万もの価値のあるものに思えた。

旅はこの誤算により、このあとさらに忘れえぬひと夜を
プレゼントすることになる。

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