飛騨の細道 57-「便利は不便?」


■便利は不便?

便利と不便。このふたつは相対的なものだけど、
不便というのは、便利さを知らなければ出てこない言葉である。

たとえばモンゴルの遊牧民たちの多くは、
自家用車はもちろん、電話やテレビ、そしてクレジットカードや
コンビニのない生活を送っているが、
ボクたちのように不便で困るということはない。

要するにもともと持ってもいないのだから、
不便や不自由を感じることがないのだ。
それにくらべると日本の暮しぶりは驚くほど便利で、
その例をあげたらキリがないほど「便利」は巷に溢れかえっている。

たとえばエレベータがあり、
靴のままで椅子に腰掛けるメモリアルホールの葬儀は、
膝のわるい人や正座が苦手な参列者にはたしかに楽だし、
部屋はホテルの披露宴会場のように明るい。

さらに食事をふくめいっさいをホールに任せられるから、
班の人に迷惑をかけなくて済むなど利点は多い。
しかし会場は便利になったぶんだけ、
偲ぶ気持ちはどこかよそよそしくなってきた。

飛騨の葬儀といえば、ひと昔前までは班の人間が総出で、
台所から帳簿などを取り仕切り、手伝うことがあたり前だった。
こんな機会に新しく班に入った人や、
親のかわりに出た息子や嫁さんは、みんなに顔を覚えてもらえた。

ところが世の中が便利になると、時間は有り余るどころか誰もが忙しがり、
班のつき合いも「面倒なことはやめんかな」の一言で手間暇が省略されていく。

便利の追求はひとつ間違うと、限りない怠惰に繋がり、
気づかないうちに僕たちから価値あるものを次々と奪っていく。